日本に実在した最強の5人の忍者
どうも進撃の期間工です!
現在の有名な忍者の中には真田十勇士などの創作作品から生まれた者も多いため、
超人的な能力を持つフィクションの存在という認識が強いですが、
戦国時代には名だたる武将が実際に忍者組織を抱えていました。
今回はその中でも歴代最強と称される忍者をご紹介いたします!
きっとあなたも一度は聞いたことがあるという名前もあるはずですよ!
目次です!
服部半蔵正成
服部半蔵と言えば、漫画「忍者ハットリくん」のモデルでもあり、日本で一番有名な忍者と言えるでしょう。
正成の父親の服部半蔵保永も200人の伊賀忍者を束ねる指揮官として家康に仕えており、
火器・水器・忍具について説明した「忍秘伝」を息子に授けたとされます。
ちなみに服部半蔵は個人名ではなく、服部家の当主となった者が代々襲名して公に名乗っていたと考えられます。
そして歴代最強の当主であり「鬼の半蔵」と恐れられたのが正成で16歳という若さで伊賀忍者60人を従え、
家康に敵対する今川方の領土である三河宇土城を夜襲したという功績を挙げたという逸話を持ちます。
後に家康から功績を称えて槍を贈られることになりますが、正成は槍の名手としても知られており、
歯の部分が60センチもある大槍を自在に扱い戦場では1人で5人分の働きをしたとも言われているのです。
徳川家を支えた数々の活躍の記録を持ちますが、、一番有名なのが「伊賀越え」と呼ばれる本能寺の変での暗躍。
正成は多くの盗賊の根城であった伊賀の山を越えて伊勢に辿り着き、
船を使って岡崎まで家康を無事に逃がしたと言われています。
この功績を買われて以降伊賀の忍者は徳川家に雇われたとされており、
これは正成だけでなく伊賀流の忍者たちの運命をも変える出来事でした。
風魔小太郎
風魔小太郎は北条氏に仕える忍者組織・風魔党の頭領であり、身の丈約2.2メートルの大男であったと言われています。
高い鼻と牙のような4本の歯が目立つ大きな口、真っ黒な口ひげを生やした奇抜な風体で、
声も5キロメートル先にいる人間にさえ聞こえたと言われる程大きかったそうですよ!
そんな恐ろしい外見の小太郎が得意としたのが夜襲などのゲリラ戦で、放火・奇襲・略奪などの
山賊や盗賊のような戦い方を得意としました。
というのも、風魔党は山賊・海賊・強盗・窃盗の4頭から構成されており、
山賊は山の中のゲリラ戦、海賊は水辺や水上での戦い、強盗は盗みや押し入り、
窃盗は忍び込むことに長けた者が集められており、
その時々で適した頭が任務に当たるという性質を持っていたそうです。
そのため荒くれ者が多く、これを纏めた小太郎は相応の実力を持っていたと考えられます。
一方、武闘派の面が目立つ風魔党と小太郎ですが、仲間を見分けるために「立ちすぐり居すぐり」という変わった手段を用いていたことでも知られています。
任務後に集まった風魔党の面々は、合言葉に合わせて一斉に座ったり立ったりを繰り返すという儀式を必ず行いました。
これはスパイが紛れ込んでいてもすぐに分かるようにと考えられた方法で、
このことから風魔党がただ戦に強かっただけではなく、統率の取れた集団であったことが分かります。
また、戦いに勝つと大声で「風魔小太郎勢勝てり」と叫んでいたそうです。
見た目にそぐわぬダイナミックな一面を持つ小太郎ですが、戦いを有利に進め、また癖のある忍者たちを配下にまとめるため、
優れた頭脳を持っていたと考えられます。
加藤段蔵
決まった主君を持たず、渡りの忍者として活躍した加藤段蔵は、
「飛び加藤」と呼ばれる程、跳躍術に長け、また幻術の名手であったと言われています。
ある時、牛を1頭呑み込んだように見せる幻術・呑牛術を春日山城で披露していた段蔵は、
近くにいた男からトリックを見破られてしまいました。
そこで撒いた種が即座に目を出して成長する幻術・生花術を披露するのですが、この花の茎を段蔵が切った途端に
呑牛術に野次を飛ばしていた男の首が飛んだというのです。
この噂はかねてから段蔵が仕えたいと願っていた上杉謙信の耳に入り、配下に加えるかの試験を受けるチャンスにこぎつけました。
謙信の腹心である直江景綱の屋敷から刀を盗むという試験であったのですが
刀はもちろん景綱の娘まで連れ去って戻ったのですが、その見事な手腕は逆に謙信に恐れを抱かせることになります。
段蔵がいつ裏切ってもおかしくない渡りの忍者であるため、優秀すぎるのは脅威にしかならなかったのでしょう。
謙信は段蔵の暗殺計画を試みますが、これに気付いた段蔵は上杉家の家臣の前で20体ほどの人形を躍らせるという幻術を繰り出し隙をついて逃げ出したそうです。
その後、謙信に敵対する武田信玄に取り入ろうとするのですが、やはり敵に回った場合を危惧され、
恐れられてしまい、最期は武田家が所持していた古今集を盗んだとして、
信玄の配下である飯富虎昌に仕えた三ツ者の忍者・熊若に捕らえられて処刑されたとされています。
石川五右衛門
伝説の泥棒として歌舞伎や漫画、ゲーム等のモチーフとしても取り上げられることの多い石川五右衛門ですが、
元々は忍者であり、天下統一が進む中で働き口をなくして、盗賊に身を移したという説があるのです。
伊賀流の抜け忍、百地三太夫に師事し、この際には石川文吾という名前を使って忍術を学んでいたとも考えられています。
五右衛門の忍びとしての優秀さをうかがわせるエピソードとして、
1580年代に木村常陸介の依頼で豊臣秀吉の暗殺を試みた際のことが挙げられます。
城の見張りを催眠術を用いて眠らせた五右衛門はなんと誰にも気づかれず、
騒がれることなく秀吉の寝室まで侵入したというのです。
秀吉にさえ気づかれることなく布団のそばまでたどり着いた五右衛門が寝首をかこうと刀を振り上げたところで
突然部屋にあった香炉が音を立てるという不可思議な現象に見舞われ、秀吉が目を覚ましたことにより暗殺は失敗に終わったとされています。
後に五右衛門は秀吉の配下に捕らえられて京の三条河原で実子を含む一派20数名と共に釜茹での刑に処されて命を落とすのですが、
その時に読んだ時世の句は「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」というもの。
浜の砂が無くなったとしても、この世から泥棒がいなくなることはない、という意味の句であり、
これを盗みの罪で処刑の前に詠むことからも五右衛門がいかに豪胆な男であったのかがうかがえます。
百地丹波
表面は伊賀の豪族として裏では忍者として暗躍していた人物であり、
1579年に織田信長の息子、信雄が伊賀に進軍した際にこれを撃退したことで知られています。
このことから忍者を恐れた信長は、2年後の1581年に自らが指揮を取って再度伊賀に侵入しました。
この時、丹波は伊賀忍者1700名とともに砦にたてこもり、周囲の山にたくさんのかがり火を焚いて大軍がいると錯覚させたり、
闇に紛れて奇襲を掛けたりといった策で信長に対抗したといわれています。
この戦いで信長は5万人もの軍隊を引き連れていたことから、
多勢に無勢で最終的には伊賀忍者が敗れることになるのですが、
丹波の奇策によりなんと1か月もの間、大軍相手にこう着状態が続いたというのです。
このように策をめぐらせて戦うことが得意であった丹波は日本国内よりも海外で知名度が高い傾向にあり、
アメリカのワシントンD.Cにある国際スパイ博物館においても諜報活動に秀でたスパイ・忍者の代表として扱われています。
また、丹波や服部半蔵とともに伊賀の三大上忍とされた藤林長門守は、
実は丹波と同一人物だったのではないかと言われており、ミステリアスな部分が多い忍者でもあります。